時々康駿    第3回(2012.5.13.)       

 栃木県高校総体が終わった。陸上競技を続けてきた若者にとって、この大会は関東大会につながることもあり、一種別の思いで臨む大会である。

 大人が子どもたちと関わる中で、大人は大人なりに考えなければならないことがある。
 今回そんなことについて書いてみる。

 我々は5月3日から5日まで春の合宿を行った。その合宿を迎えるにあたって、私はいくつかのことを伝えたかった。もちろん、おおよそ一週間後の高校総体を見据えての内容であることに違いないが、それだけではない。
 しかし、大会が終了してから考えたことは「伝えたかったことが本当に伝わっていたか」ということであった。

 練習というものは「やっている時も楽しく、将来も快適な気分になる」ものをしなければならない、という大前提がある。
 やっている時が楽しい、と言っても娯楽的な楽しさではない。真剣味の楽しさである。
 将来が快適な気分になる、とは試合で結果を出すことに加え、生涯にわたり人生の隠し味になることである。
 このことは教える側からすると本当に難しく厳しいものである。試合が終われば結果はわかる。それだからと言って、結果が出た後の将来はわかるはずがない。それでも、感性を働かせて指導していく毎日なのである。

 そこで練習について考えた。
 練習は「つらい」と思わせるものがあってはならない、と言うこと。それは楽しさを取り上げるだけでない。心理的に要求していないものを無理やりやらせても意志力が高まるはずはないからだ。いわゆるシゴキで意志力が高まるとは思えない。
 具体的に「400m系の練習はつらい」ということを例にあげる。
 速いスピードで走れば走るほど酸素を必要とするからエネルギー消費は高まる。つまり、成果を期待する保障としてエネルギー消費に犠牲を払っているわけだ。要は、その発想が子どもに伝わり、子どもが理解し、「つらいのではない」と思えるかどうか、ということなのだ。そうなった時、付帯的に意志力が高まるとは考えられないか。そのような意志力は直近の試合でも、生涯に渡る生き方にも役立つものと信じなければやっていけない。

 この春の合宿で伝えたかったこと、それは「練習が目指す試合と将来に与える影響」であったが、高校総体で伝わっていたか?ということの結論を出さねばならない。
 が、出せない。それは、教える側の要求と教わる側の受け止めにズレがあるからだ。
 そのズレが少なければとりあえず成功と考えてしまいがちだ。特に、結果が良ければなおさらだ。それでも、それは高校総体、その日だけの問題であり、人と人との関わりという本質の追求への解決にはなっていないのだ。

 今週は関東学生と東京六大学野球の観戦に上京するが、4年生の動きに注目したい。
 なぜなら、彼らは自ら選択して大学四年間(もちろんそれ以前から)スポーツにどっぷりとつかり、集大成としての時間を過ごす貴重な時間と、私は捉えているからだ。
 ノスタルジックな思いがあることは否定しないが、新しい感性が沸くことへの期待もこめて…。



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     第1回(H24.05.01)
     第2回(H24.05.08)



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